Kohistanの地質調査に関する個人的覚え書き


 「地質学」は野外調査で得たデータに基く学問ですから、たとえばヒマラヤの地質を研究したかったらヒマラヤに行ってみなければなりません。研究したい地域が外国にある場合、その国の政治・経済的な状況によっては学問とは直接関係のない「いろいろな問題」が生じることがあります。実際に、こうした「いろいろな問題」が研究上の最大の障害だったりします。ある地域の調査結果は論文や報告書として公開されますから、それらを入手するのは比較的簡単です。ところが、調査の準備段階や実施中にどのような問題が生じて、どのように解決したかは論文には書かれていません。学問上の成果と関係のない事項は個人的な記録(記憶?)以外には残されないのが普通なので、そういう情報を入手するのはけっこう難しいのです。

 このウェブページの内容は、ヒマラヤ北西部の地質調査についてのナマの個人的情報の羅列です。「こうしてウェブページに載せておけば、同じ地域の地質に興味を持つどこかのだれかの役に立つこともあるかもしれない」という程度のささやかなものです。とりあえず、留学の準備段階からパキスタンへの入国までの過程を公開します。著者の気が向いたときに少しずつ書き加えていきますので、たまに覗いてみると更新されているかもしれません。


1. なぜパキスタンなのか
 私がパキスタンに滞在していたのは1990年3月26日から翌年3月1日までの一年弱の間でした。1989年に私は大学院修士課程に在学していて、博士課程に進学した場合の研究対象としてヒマラヤをやってみたいと考えていました。

 一口にヒマラヤといっても水平方向のスケールが日本の北海道から九州までと同程度なので、一人で出かけて行って調査できる範囲はわずかなものです。ヒマラヤ山脈を領有する国のなかで、ブータンは鎖国していて入国するだけでも難しく、中国は一介の学生の個人的な調査活動を受け入れる体制ではありませんでした。インドとネパールの領域はすでにかなり調査されてしまっていました。こういう消去法によって漠然とパキスタン北部地域の論文を漁っているうちに、そこでは地殻の最深部から表層までの断面が観察できるらしいという(地質を学ぶ者にとっては)たいへん興味深い情報に行き当たりました。


2. お金の工面
 文献を調べていくと調査すべき対象がだんだん具体的になってきますが、お金がなければ実行できません。当時は修士課程で留年する(一年生のとき遊びすぎた)ことが決まっていたので、半年くらいバイトしてお金をためようと思っていました。丁度そのころ、文部省学術国際局が「アジア諸国等派遣留学生」を募集しているということを村田明弘先生(当時)から教えていただき、応募しました。この制度ではアジア諸国の大学や研究機関に二年間留学できて、往復の旅費と月額10万円が支給されます。普通の地質調査を実行するには十分な金額です。

 やがて書類審査にパスしたとの案内が届き、面接に赴きました。面接官は数名いて、ごく一般的な質問(内容は忘れてしまった)ばかりでほっとしたとき、面接官の一人がいきなり『英語のような言葉』でぺらぺらと話しかけてきました。そのとき私は何が起こったのかわからず凍り付き、「出発までに英語の勉強をしておくように」と言われてしまいました。当時の私の英語力は外国に行くのは無謀というべきレベルでしたが、まあ行ってしまえばなんとかなるだろうと安易に考えていました。


3. 出発までのドタバタ
 次に、留学予定先の大学に連絡を取って入学許可をもらい、それに基づいてパキスタン大使館に「学生ビザ」を申請しなければなりません。応募する前に留学希望先の機関に申し出て内諾をとっておけば話が早い(普通はそうする)のですが、実は私の場合、応募を思い立った時点では何の準備もできていませんでした。そこで、応募書類を提出するときに「なにもしていないのではまずい」ということでパンジャーブ大学地質学教室のシャムス教授にアリバイ工作的な手紙を出していました。

 「派遣留学生」に採用されてから、再度シャムス教授に留学の可否を打診する手紙を書きましたが返事がないまま漫然と過ごしていました。国家予算というのは単年度で決算しますから、私の場合、採用年度である1990年3月末までに留学手続きを終えて出国しなければすべてがご破算になってしまいます。当時の指導教官であった吉田鎮男先生が留学手続きが進んでいないのを心配して、パンジャーブ大学がだめなら他をあたってみようということで、いろいろと手を尽くしてくださいました。ペシャワール大学地質学教室のカシム・ジャン教授と面識があった小川勇二郎先生(2005年現在筑波大学教授)にカシム教授宛てに私の紹介状を出してもらうことになり、同時に私から留学を打診する手紙を出しました。この間、私は慣れない英文の手紙を何通も書かなければならずウンザリしていましたが、吉田先生が毎回丁寧に添削してくださったのでなんとか投げ出さずに済みました。

 カシム教授から快諾の返事が届き、「これでなんとかなりそうだ」ということで留学先をパンジャーブ大学からペシャーワル大学に変更する旨を文部省に申し出たところ、「留学先の変更は認めない」とキッパリとはねつけられ、作業は振り出しにもどります。もう出国期限まで時間がなかったので、吉田先生の勧めにより、シャムス教授宛てに電報を打ちました。また、文部省の担当の方が在パキスタン日本大使館に、私の留学手続きを支援するように連絡してくださり、結局、期限の約一カ月半前に日本大使館・文部省経由で入学許可の文書がFAXで届きました。

 次に「学生ビザ」を取得しなければなりません。在日パキスタン大使館に電話し、「ぶっ壊れた英語」で話かけましたが相手は理解できないようでした(あたりまえですね)。二言三言の頓珍漢なやりとりのあと、相手が日本語でしゃべりだしたので用件を伝えることができました。2月末か3月始め(日付けは忘れてしまった)にパキスタン大使館に出向いてビザの申請を行いました。入学許可の文書が本物ではなくてFAXで受信したものなので、この点が問題になりはしないかと気になっていましたが、ここまできたら成り行きにまかせるしかありません。

 受付けでパスポートと申請書と件のFAX文書のコピーを提出すると、書記官との面接があることを伝えられました。「げえ、また英語でしゃべるのか...」、と一瞬狼狽したのを見透かされたのか、受付けの方が「面接するのは日本語ができる書記官ですよ。」とやさしいお言葉をかけてくださいました。面接では、留学の目的とこれまでの経過を(もちろん日本語で!)説明し、3月末までに出国しなければならないので大至急ビザが必要であることを訴えたところ、「ビザはできるだけ早く発給する」との約束をとりつけることができました。

 3月9日付けで「学生ビザ」が発給され、その後、文部省学術国際局の担当の方から「航空券を支給する」との連絡があり、文部省に出頭して受け取りました。これで出発前の全ての手続きが終わり、ようやく留学生の身分でパキスタンに入国できることになりました。


4. パキスタン入国
 たくさんの方々に協力していただき、また迷惑をかけて1990年3月26日に出国までこぎ着けました。パキスタン航空の北京経由イスラマバード行の便は中国側からカラコルムとヒマラヤを越えてイスラマバードに至ります。当日は天気に恵まれて8000メートル級の山々(K2, ナンガパルバットなど)を見下ろすことができました。

 夜7時ごろイスラマバード空港に着き、飛行機を降りて、興奮ぎみに入国審査の列に並びましたが、「審査」というほどのこともなく、ただ、パスポートに機械的に入国のスタンプが押されただけ。次に荷物を受け取って税関のカウンターに向かいます。税関では手荷物についてはチェックされませんでしたが、パンジャーブ大学宛てに別途郵送した荷物があったのでその申告書を係員に提出したところ、関税として50ドル請求されました。別送品は地質調査に必要な道具だったのでやむをえず支払いましたが、後になって、ここでは申告する必要はなかったことがわかります。つまり税関の係員にカモられたわけです。

 到着ロビーの出口付近に銀行の窓口があり、ここでドルをルピーに変えて外に出ると、最初に私を歓迎してくれたのはタクシーの客引きでした。
...つづく

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