117. 帰国の準備
 1月2日-14日 3月までに帰国すると決めたので、残りの滞在期間に必要ないものを整理して実家に送ることにしました。地質調査用具は既に発送済みですが、10か月近い滞在中に買い込んでしまった物がいろいろあります。特に書籍は日本の洋書の価格よりもはるかに安い(ドル、ポンドの元値をルピーに換算した値のほぼそのまま)ので、書店で地質学関連の本を見つけるとつい買ってしまって25冊に増えていました。荷物は安い船便で送りますから、宛先に届くまで2か月程度かかります。そのうちに発送したことを忘れてしまいます。「これからこういう物を何日頃に送る。」と親に連絡しておなかればなりません。他にも、健康保険(被扶養者)や電話回線を復活させるための事務処理など、親にお願いすることがあり、手紙を出しておきました。荷物は14日に発送しました。1月5日には大学院の同じ研究室の先輩にあたるYkさんにも手紙を出します。Yk先輩は、コーヒスタンの地質に興味があるとのことで、私の調査が一段落したところでパキスタンにやってきて、私が同地域を案内する約束になっていました。すでにいくつかの手紙のやり取りで準備を終えていて、1月20日の来訪予定に向けての最後の連絡です。

 1月15日 大学院で私の指導をして下さっている吉田鎮男先生に手紙を出しました。「アジア諸国等派遣留学」による派遣期間は原則2年間であり、私は1年目の終盤にさしかっています。残りの派遣期間を放棄して帰国するため「留学辞退願」を書いているのですが、その文書は東大の総長の決済を受けて、総長から文部大臣(当時)に提出しなければなりません。個人の都合で規定にはずれることをやろうとすると、いろいろとめんどくさいことになってしまいます。吉田先生には、私の留学辞退願を総長に取り次いでいただくことをお願いしました。16日には何をしていたのか記録がありません。

 1月17日 パキスタン航空のオフィスに出向いて帰国するための航空券を購入しました。出国するときは文部省の担当者から正規運賃の航空券を直接渡され、搭乗手続きでビジネスクラスに格上げされました。帰国は自己都合なので自腹で購入します。もちろん、自腹といってもエコノミークラスなら支給された奨学金を節約して貯めた残高で賄えます。3月1日にラーホールからカラチに飛び、東京成田行に乗り換えます。税金を含めて総額15410ルピー(約10万円)でした。ただし、こちらが希望する3月1日の便は満席で「キャンセル待ち」になるとのことでした。こうした雑用をこなしながらも、次に述べるように、あるアーティストの「追っかけ」を敢行しました。

118. ヌスラット・ファテ・アリー・ハーン
 1月17日 航空券の購入を済ませた後、バスターミナルから12:00発ファイサラーバード行のバスに乗り込みました。ウルドゥ文学が専門の日本人留学生Yさんも同じ目的で同行しています。ムガール帝国の勢力圏だった地域には、「カッワーリー (Qawwali)」と呼ばれる伝統的な音楽様式が存在します。インドとパキスタンに跨るパンジャーブ地方はこの音楽が盛んな地域の一つです。私はイスラマバードのマーケットで冷やかしにレコード店に入ったとき、陳列されているカセットテープを眺めていて、ざんばら髪の太ったおじさんが小さなオルガンのような楽器を弾いている姿が目に止まりました。日本から小型のラジカセ(もやは死語?)を持ち込んでいたので、それを買ってラーホールに持ち帰り、聞いてみることにしました。全くの興味本位で、暇つぶしになればよいという程度の認識でした。インド地域の伝統音楽といえば、弦楽器をヒュンヒュン掻き鳴らすようなものと思っていました。しかし、カッワーリーはそれまでに聞いたことがあるどのジャンルの音楽とも違ってました。「魂を揺さぶられる」と言えば陳腐な表現になってしまいますが、まさにそうとしか言い様がありません。ちなみに、当時のパキスタンではCDは高価であまり普及しておあらず、音楽メディアの主流はカセットテープ(下の画像)でした。



 「ざんばら髪の太ったおじさん」の音楽の虜になった私は、街に出かけるたびにレコード店を覗いて「おじさん」のカセットを買い集めるようになっていました。同じ寮に住んでいるYさんが私の部屋を訪ねてきたとき、机に置いていた「おじさん」のカセットを見つけて、「カッワーリーですね」と呟いたことから、カッワーリーと呼ばれる音楽と、その演者である「ヌスラット・ファテ・アリー・ハーン」のグループを認識することになります。Yさんによると「ヌスラットはラーホール近郊のファイサラバードに住んでいる。」とのことでした。そこから話が膨らんで「ファイサラバードの観光を兼ねて一度会いにいってみよう。」ということになりました。ファイサラバードは英領インドの時代に建設された都市です。そのため、観光の対象になるような建物や遺物はほどんどありません。外国人観光客が大勢やってくるようなことはないので、普通のパキスタンの人々が暮らす街の代表として訪れておきたいという意味もありました。

 14:30に到着し、宿泊先を確保してすぐにタクシーで郊外にあるヌスラット氏の自宅に赴きました。ところが、彼は新作のレコーディングのためにラーホールに出かけてしまっていました。訪問は空振りに終わりましたが、ラーホールでの滞在先を教えてもらうことができました。この日はファイサラーバードの市街地中心にある時計塔(下の画像)を起点にバザールを見物します。



 ファイサラーバードは計画的に建設された都市です。上の時計塔を円形の道路が囲み、そこから8本の道路が放射状に伸びています。放射状の道路はそれぞれがバザール(商店街)になっていて、全体としてマーケットプレイスを構成しています。八つに区切られた街区は縦横それぞれ約 400 m の四角形の内側に収まっていて、その外側に官庁、病院、大学などの都市機能を担う施設があり、それらの周囲に住宅があります。時計塔に辿り着いたときは夕刻で日が沈みかけていました。その時すでに円形道路には人が大勢集まっていて、その後どんどん人出が増えてきます。



 8本のバザールは、それぞれ「主力商品」が異なります。靴屋と電化製品の店が目立つ通りや、食品と雑貨の店の通りなどがあります。飲食店は中央の時計塔に近い側に出店しているようです。このマーケットプレイスの一番の特徴は布地の店がやたらと多いことです。ファイサラバードは繊維産業が盛んであることを反映しているのでしょう。織物屋にはとにかく大量の布地が積み上げられています。日が暮れると、黄色っぽい店の電灯に布地の色が映えて日中よりも綺麗に見えます。きっちり畳まれた布地の陳列は、ある種の「作品」のようです。



「カッワーリー」と呼ばれる音楽に興味を持った方は次のサイトや、そこからのリンクを辿ってみてください。

Sabri Brothers

Nusrat Fateh Ali Khan


 1月18日 11:45発のバスに乗り、14:30にラーホールに到着。そのままヌスラット氏の滞在先に赴き、ようやく面会がかないました。ウルドゥ語が堪能なYさんがうまく説明してくれたので、ヌスラットのファンとして歓迎してもらえたようです。彼はカセットの写真のとおりの丸々と太った体型で、声はテープから出る歌声と同じように少し掠れています。その掠れ具合は耳障りなものではなく、むしろ歌声の背景に心地よい風が吹いているような印象を与えるものになっています。その場で歌詞が書かれているノートを見せてくれました。歌詞は下の画像のように手書きで記されています。ペルシャ語またはウルドゥ語による宗教上の「聖者」を称える詩、あるいはパンジャービー語の物語を素材にしているらしいのですが、私にはそれを読むことはできません。話題が途切れたのを機にお暇しようとしたとき、同席していた音楽プロデューサーを名乗る男性が寄ってきて、「明日の夜に新作のレコーディングがあるので見にきてはどうか?」と言います。こちらとしては願ってもないことなので、見学させてもらうことになりました。



119. 湾岸戦争勃発
 私たちの行動とは無関係ですが、1月17日に「多国籍軍」がイラクを空爆して「湾岸戦争」が勃発しました。1990年8月にイラク軍がクウェートに進攻し、そのまま併合まで一気に進みました。その後、国連で種々の議論が行われた末に、事態収拾のためイラクに対する武力行使が認められ、実行部隊としての多国籍軍が組織されました。多国籍軍は1月17日に軍事行動を開始しました。イラクによるクウェート併合後に、イラク軍対多国籍軍という対決構図がはっきりしてくると、イスラム国家であるパキスタンではイラク大統領のサダム・フセインを支持するデモが行われるようになっていました。サダム・フセインを英雄視するイラストのポスターなども売られていました。私も一枚買って持ち帰ったのですが、どこかに紛れてしまいました。こうした市民感情とは異なり、パキスタンは多国籍軍の側について参戦します。イラクに敵対するのですから、イラクからミサイル攻撃を受けるかもしれません。また、反政府運動(後述)が起きて国内情勢が悪化する恐れがあります。多国籍軍の枠組みができつつある段階で、パキスタン在住の日本人をどのように避難させるかということが日本大使館で検討されたようです。大使館からの指示で、ラーホール在住の日本人間の連絡網が作られ、パンジャーブ大学に在籍していた私を含む留学生3人も連絡網に組み込まれました。当時の連絡先リストには20人くらいが載っていたと思います。「こんなに日本人が住んでいたのか。」と少し意外に感じました。湾岸戦争は2月28日に終結します。幸運にもパキスタンはあまり大きな影響を受けず、「在留邦人の避難」というような事態にはなりませんでした。


...つづく

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